夏色の。 気が付くと、私は真っ白な建物の中にいた。扉も窓もない、逃げ場のない白い世界。ご丁寧に、私の服まで白かった。 誰かいないものかと叫んでみても、私の声しか聞こえない。再び訪れた音のない世界は先ほど以上に虚しいもので、叫ばなければ良かったと少し後悔した。都会の喧騒は嫌いだが、耳に痛いほどの静寂も遠慮したいものだ。 ため息をついて顔を上げると、目の前には一枚の絵画。いつの間に、と思ったが、初めからあったような気もする。紙の中には一匹の鯉。真夏の激しい日差しの色をしたそれが動くたび、波紋が音もなく広がる。鯉に触れようと手を伸ばしたが、返ってきたのは紙の感触だった。 私は手を下ろし、じっと鮮やかな色彩を見ていた。何故だか分からないが、目を放すことができなかった。自分と同じ『色を持つもの』としての興味か、色のない世界へ目を向けることの恐怖か…… どれだけの間そうしていただろうか。突然、声が降ってきた。いや、頭に直接響いてきた、と言った方が正しいかもしれない。それは私が分かる言葉では無かったけれど、なんとなく感情が伝わってくる気がした。 「せまい」 「さみしい」 「かえりたい」 鯉だ。この場に私と鯉しか居ないからという理論的なものではなく、確信めいた直感で理解した。 力になりたいと思ったが、私に何ができるというのだろう。この世界のことは何ひとつ分からない。鯉に触れることはできないし、こちらの意思を伝える手段も持たない。 焦燥感が募るばかりで、良い案は全く浮かばない。ああ、私はなんて無力なんだろう。 勝手に焦って勝手に落ち込むなんて、傍から見たら相当滑稽なんだろうな。自嘲の笑みが浮かび、ついでに涙も浮かんだ。 そういえば、最近は泣くことなんてなかった。人前で泣くのは弱みを見せるようで絶対に嫌だ。解放された時間は夜のわずかな間だけだし、翌日のことを考えると寝る前に泣くなんて出来ない。腫れぼったい真っ赤な目で出社するなんて、考えるだけでも恐ろしい。 纏まりのない思考を巡らせている間も、一旦流れ出した涙は止まることなく床に落ちていく。もう何のために泣いているのか分からない。悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだと、いつかどこかで聞いた言葉を思い出す。そんな知識が今何の役に立つのだろう。どうでもいいことばかり考える自分の頭に嫌気がさす。 そんな頭でも自分の一部だと開き直る頃には、足元に水たまりができていた。しゃがみこんでパシャパシャと叩く。よく脱水症状に陥らなかったなと妙な関心をしていると、つむじの辺りに視線を感じた。立ち上がると、鯉が私を見て笑っていた。魚類の表情を判別する能力なんて備わっていない筈だが、確かに微笑んでいた。 目を合わせたまま突っ立っていると、鯉は絵を飛び出してきた。紙には大きな波紋ができたが、相変わらず音はない。ぴょんと跳ねて落ちてくる様が、スローモーションを見ているようだった。ぶつかる。そう思って目を閉じたが、次に目を開けたときには鯉の姿はなく、白い天井があるだけだった。 不思議に思ったまま身体を起こす。 ――身体を起こす? おかしい、私は立っていたはずだ。それよりも鯉はどこへ行ったのだろうと首をひねると、茶色い物が目に入った。私はこれの名前を知っている。タンスだ。そして、ここは見慣れた自分の部屋だ。 ベッドから這い出て深呼吸する。閉じたカーテンの隙間から朝日が差し込み、光の川を作っていた。あの白い世界の光とは違い、優しい色をしている。 それにしても、なんて疲れる夢だ。あんな夢は二度と見たくない。そういえば、あの鯉はなんだったのだろう。あの後どうなったんだろう。夢だと分かっていても、そう考えずにいられなかった。多分、まだ寝ぼけているんだろうな。幸い今日は休日だし、もう一度寝よう。 再びベッドに潜り込み、次はきっと楽しい夢だと変な自信を持って目をつぶる。体が沈み込んでいく錯覚を感じ始める頃、パシャリという音と共に誰かが囁いた。 「ありがとう」 夢だか現実だかわからなかったが、そんなことはどうでもよかった。「どういたしまして」とすまして答えると、楽しそうな笑い声が聞こえた。 光の川を泳ぐ声の主を瞼の裏に映しながら、私は二度寝という至福の時間を楽しんだ。 06/12/07
春に書く。→夏にアップしよう。→気付くと3年近く経ってる。忘れないうちにアップしよう。→結果:季節外れ。 戻る |