あいつは、俺にとって都合のいい存在だった。 文句も言わず、俺の言うことを何でも聞く。 利用するだけ利用して、飽きたらすぐに捨ててやるつもりだった。 ……だけど、あいつはいつも笑っていた。 口汚く罵ったり、時には手を上げたりしても、それは変わらず。 何を言っても、何をしても、俺に尽くしてくる。 おかしい。こいつは普通じゃない。 言い知れぬ恐怖が俺を襲った。 早く、早くこいつから逃げなくては。 ホテルの一室。いつものように愛の言葉を唇に乗せる。 あいつは、これから殺されるとも知らずに無邪気に笑っている。 あいつが見ていないすきに、自分のワインに毒を垂らす。 それを口に含んで、口移しで飲ませる。数秒後、あいつが目を見開いた。 今さら気付いたって、もう遅い。あいつの唇がゆっくりと動く。 どれだけ罵られようがかまわない。これで俺は逃げられるんだ。 俺の、勝ちだ。 あいつが動かなくなったとき、俺は唇を歪めたまま凍りついた。 「ありがとう」 あいつは確かにそう言った。 何故だ、何故自分を殺した俺に? 分からない。もう何もかもが分からない。 一度消えたと思った恐怖が、さらに大きくなって俺を襲う。 俺は逃げられないんだ。あいつからも、この恐怖からも。 ただの遊びのつもりだったのに、どうしてこんな…… ふと右手を見ると、ワインが赤く揺れている。 そして、俺は…… ああ、俺は相手を誤ったんだ。 気付くのが遅かったのは、俺の方だ。 意識の遠くで、グラスが割れる音がした。 |